このブログを検索

2/27/2013

Tribute to A. C. Clarke, ~I, existence, Intelligence~

今回は妄想を爆発させたいと思いますが、大した背景知識もなく何となく聞きかじりのことをつぎはぎするだけですので、支離滅裂になるかもしれません。


Arthur C. Clarkeという作家の本がとても好きで、中学生の時に初めて触れて以来、その当時に出ていた本はほとんど全て読んだと思います。代表作として有名なのは「2001年宇宙の旅」でしょう。S. キューブリックの映画として有名ですが、その原作となっている本であり、これに代表されるように、数多くのSF小説を書いた作家です。(残念ながら2008年に亡くなっています)



書評などは一丁前にできるようなタチではないのでやらないのですが、あの時期彼の本を読んで大きな衝撃を受けたことは今でも強く印象に残っていて、自分の世の中の見方に大きな影響を与えているような気がします。また、現在の科学技術の進歩を見ると、大まかな方向性としては彼が予想していたものに近づいているのではないか、と思うことも多々あります。

例えば、人間のような知性を持った存在の進化について、彼は以下のような将来を考えていた様です。

1. 現在のヒトの様に、生命と知性が一体になっている
2. 生命の限界を乗り越え、知性は生命とは別のいれものを持つようになる
3. 物質としての存在の限界を乗り越え、純粋に「知性」だけの存在となる

2.までは何となく分かるのですが、3.などは一体どんなもの??と、想像が難しいところがあります。ただ、いま色々なところで開発が進んでいる新しい技術を見ていると、なんとな~くふんわりと、ではありますが、そういったものが見えてくるような気もするのです。


<生命と空間の限界を超える>

まず1.から2.への動きですが、我々が現在前提としている、それぞれの個人が持つ肉体と個々人の存在や知性は切り離せないもの、という見方、この前提は意外と早くに崩れるかもしれません。

例えば、テレプレゼンスと呼ばれる技術が少しずつ普及しようとしていますが、これは自分は家にいながらにして、遠く(例えばオフィス)にいるロボットを動かして会議や会話に参加したりできるというものです。



この技術は、「わたし」は家にいるのに、「わたし」は別のところで「存在」して「経験」したり「学習」したり、「コミュニケーション」したりすることを可能にします。日本のアパートにいながらにして、ルーブル美術館を見学して回る、とかいったこともできる訳で、人間の「存在」や「経験」の幅や定義を大きく変えることになる技術(のモト)だと思われます。

今のところは、単にタイヤの上にカメラやセンサー、ディスプレイが付いていて、それをネットワークを介してスマホやパソコンを使って操作するというものですが、これに自分の腕と同じように操作できるようなアームが付いたり、BMI(Brain Machine Interface)の進化で自分の脳と直接リンクして動作指示とか音声を入力したり、そいつが感じ取った視覚、聴覚、その他の情報を自分の経験として出力させられるようになったりすると、あたかも「自分」が「そこにいる」かのように、別の場所にある「からだ」を動かして、別の場所でやりたいことができるようになります。

ただ、これだけだと、そういった操作の「主体」たる「わたし」が帰るべきからだはどこかに存在しなければならなくて、これが機能停止してしまうと「わたし」は消えてしまう訳ですが、これは、脳と同じ機能を備え、「わたし」を移しかえる先としての別のイレモノを用意すればいいわけです。ここは全く勉強できていない分野ですが、脳科学とコンピュータの発展によりそう遠くない将来に実現するのではないかと感じています。

イレモノを移し変えることで、「わたし」の「知性」が生命と切り離され、半永久的に「存在」し続けることができるようになりますし、空間を越えることもできるようになります。

例えば火星探査をする際に、わざわざ人間を送り込む必要はなくて、イレモノを先に送っておいて、後から「わたし」がそこに転送される、という使い方ができたりするのです。

また、「わたし」の存在の仕方も様々な選択肢が出てくるかもしれません。クルマかもしれないし飛行機かもしれないし、冷蔵庫かもしれないしアイロン台かもしれません。もちろん人型ロボットでもよいでしょう。「わたし」の働きを再現できる機能が備わっていて、必要な活動ができるイレモノであれば、何でもよいのです。


<存在の限界を超える>

しかし、半永久的に形態や空間を選ばず「わたし」が存在できるようになる一方で、結局イレモノが何かの拍子に損傷する等で機能しなくなってしまうと、「わたし」の存在も一緒に消えてしまう、という問題は残ります。そこで、2.から3.の動きが必要になるのですが、ここはいまいち想像が及ばないところがあります。

私が今想像しているのは、個々の「わたし」という存在の一部が「わたしたち」の中に溶け込んで、人類のみならず世界の全てを含めた情報の総体としての「知性」という在り方が立ち上がってくるのではないかということです。

現在、インターネット上にものすごい勢いで人類が生み出したデータが蓄積されてきていて、しかも単にそれを蓄積するだけでなく加工したり新たなものを生み出す為のアプリケーションまでネットワーク上に存在するようになってきています。情報の蓄積と加工ができるようになれば、今度は新たにそれらから新たな知を自動的に生み出すことができるようなプログラムができるかもしれません。

また、Ciscoがインターネットが現在進んでいる方向としてThe Internet of Thingsを示しているように、この先ネット上に流通、蓄積されていく情報の出所、そしてそこで加工された情報を使う場所は人間だけに限られなくなります。世界のあらゆるところにセンサーを張り巡らされて情報が集められ、それをベースにして個々の末端でそれぞれ必要な情報を必要なカタチに加工して判断できるようになります。或いはどこか巨大な中心部で必要な分析や判断を下したり、といったことがされるようになるのであろうと予想されます。(個人的には、巨大な中枢が存在する、というのはものごとの在り方に反しているのではないかと思いますが)

これは、人間の知性をはるかに超える、巨大な一つの知性がたち現れる可能性として考えられるのではないかと思うのです。このような知性は、ネットワークを介して遍在することが可能であり、ひとつの生命体の存在の仕方にとらわれない為、生命や存在の限界を超えた別のなにものかであると考えられます。そして、これらの知性に様々なものや人間が接続可能な世界では、人間もこの知性が世界に現れ、働きかける為の一つの末端になる、というような感じになるかもしれません。イメージとしては、人間の身体におけるひとつの神経細胞、筋肉、などといった感じでしょうか。

但し、当然上記のような未来には沢山の懸念点や疑問が生じることはどう考えても明白です。
最も大きなものは、「わたし」という存在の境界線に関する懸念など。これは、別途考えていかなければなりませんが、今回はこの先どういう方向に向かうか、ということを妄想するのが目的ですし、これが具体的な問題として立ち上がってくるのはかなり先の話になると思いますので、ひとまずここでやめておこうと思います。


0 件のコメント:

コメントを投稿