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1/31/2013

イノベーションに至る問い


『自己組織化と進化の論理』(スチュアート・カウフマン)を読みました。長いこと掛かりましたが。


生物の進化は、単に気まぐれな自然淘汰の結果によるものではなくて、背景にある原理に沿ってある程度導かれて現在の状態に至っていて、その原理というのが自己組織化という考え方です、ということを、生物学や数学の話を絡めながら論じる、とても長い本です。ちょっとずつ、他の本と並行しながら読み進めてきたので半年近く掛かりましたが、当初期待していた通り示唆に富む内容です。(理系の知識満載なので半分ぐらいしか理解できていないと思いますが)

例えば以下の話。 

生物学による生物の進化の過程に関する研究では、種の進化の中でも根本的な部類に関わる特徴(脊椎の有無等)からまず多様化して淘汰が行われ、その後進化が進むにつれて個々の種の中でより細かい部分での多様化が進んできた、という歴史が見られるそうです。この適応化の過程では、ランダムに種の分化が進むと、より適応した形態に辿り着く可能性が指数関数的に低くなり、そのため進化の速度が遅くなるそうです。

この考え方は、技術やビジネスにおけるイノベーションを考えるときに示唆的です。たとえば自動車の歴史を見ると、発明された当初はエンジンが前にあったり後ろにあったり、動力が蒸気であったり電気であったり石炭であったり、と様々な形態の自動車が見られ、載せられている技術も様々でした。その後次第に大まかなデザインが固まり、20世紀初頭にT型フォードが市場を席巻して自動車を大きく普及させた後は、ほとんどそのカタチや大まかな機能というのものには違いがなくなり、細かい部分での分化や差別化を試みながら、その差別化をいかに効率的にスピーディに回すかがとても重要になってきました。(最近の外部環境の大きな変化で、電気自動車という別の進化の系統が現れつつあります)このほかにも、「コモディティ化」したといわれる技術や製品などは、どれも似たような歴史を辿ってきたのではないかと感覚的に思います。生物の進化と同じ理屈で技術の進化も動いているのではないか、と推測することが可能なのではないかと思われるのです。

もし同じ理屈で動いていると仮定すると、今の時代はイノベーションに速度が求められる時代であるという言説は、上記の様に適応的な進化の過程で大きな変化(=イノベーション)に辿りつくのにどうしても時間が掛かるようになるのは必然、ということになりますから納得がいきます。既存の技術を破壊するようなイノベーションを起こしたくても、ある程度成熟してしまったものは大きなヒットを出す為のネタにヒットする確率はどうしても落ちてしまう。だから、試行錯誤をとにかく沢山繰り返して新しいものをつくり、どこかで当たるのを期待する、という話になります。しかし、これでは人も会社も疲弊しますし、オカネも掛かって仕方ありません。イノベーションを起こすというプロセスは自動化されていませんから、沢山の人を投入すればそれだけネタを見つけられる可能性がある訳で(その人の「質」に違いがあるのは否めないので一律に同じ前提で考えることはできませんが)、人件費で競争力のある新興国の方が有利になってしまうのは致し方のないことです。

しかし、しょうがない、とも言っていられない。

もし上記の前提が正しいのであれば、問いの立て方によってはそれほど回数をこなさなくてもヒットする確率を上げられる方法があります。

適応的な進化には、ランダムに分化した種の中から環境に適応できないものの淘汰が進んでいく、という前提があります。その考え方を適用すれば、製品や技術が当初発生した段階で分化の方向を模索する際に、生き残れるものを規定する制約要因があったからこそ現在ある方向に進化をしてきたということになります。しかし、もし当時と比べてその制約要因に変化が起こっているならば、「適応」の条件が変わっていることになります。その条件を考慮に入れた上で、これまでとは別の方向に変化を起こせば、新たな「種」を創造し直すことができるということになります。それがイノベーションになる、というイメージです。自動車で言えば、燃料費の上昇やバッテリー能力の向上などといった変化が、20世紀初頭にガソリンエンジンのクルマが主流となったときと比べてかなり大きな制約要因の変化に当てはまると思われます。

そうすると、今あるものをどうやって改善したらヒットするか?という、既存のものの延長線上にイノベーションを求める問い方では、新たな種を創造する事はできません。昔やろうとしてあきらめたことはなんだったか?それはなぜあきらめたのか?今だったら、できるようになっているのではないか?そういう問い方が必要なのではないかと思います。

過去を振り返ってできなかったことが、今ならこういう方法で解決できる、ということを実行に移すことが、イノベーションに向かう為の近道になるのではないか、というようなことを考えました。また、それこそが、「過去」を知っている人達=先進国にしかできないことでもあるのではないかと思いました。

1/18/2013

人生をもっと自分の手元に

ネットの普及というのは、大企業であることが、逆に不利になるケースが増えてくる時代をもたらすかも知れない、というようなことを考えています。

大企業のデメリットというのは、意思決定に時間が掛かるとか、何かと保身に傾きがちな人が増えがちとか、オペレーションに従事している「だけ」の人が多いこと。大きな組織になっていくというのはそういうことで、それは避け難いものです。でも、その副作用として、そういう人々が醸し出す文化に絡めとられて、価値を産むのに役立つ先端的な専門知識を持ってそれを発揮したい人とか、それを日々更新する努力をする意欲が高い人というのは大立ち回りを演じる場所が少なくなっていきます。

この先どういう社会になっていくんだろうなぁ、ということを妄想すると、
・ネットで個々人が簡単につながって色々とインタラクションしやすくなる
・力のある個々人でチームを組みやすくなる
・そういったチームの方が、より速く、質の高いソリューションを生み出しやすくなる
・そういった力のある人達により高付加価値な仕事が入るようになる
といった社会になっていくのではないかと思います。結果として、はじめに挙げた様な、ただオペレーションを回す、とか内向きの調整に勤しむ、とか、大企業であるばかりに必要になってくる仕事をする人達を雇い続けることのデメリットの側面が大きくなるような気がします。そういった仕事ができるせいで、余計に意思決定に関わってくる人たちが増えていったりして、提示するソリューションや製品に切れ味がなくなったり、意思決定が遅くなったり、という感じで、結果が出せなくなるのです。

大きな組織に入ってしまうと安心しちゃったりしがらみに疲れたりやりたいことができなかったりして、前に進んだり社外の人に会って新しいことを学んだりする意欲が削られていく感じがあるのですが、気のせいでしょうか。でもその中で安穏としていると、放り出された時に、自分の拠り所となるものが何もないというような事態になってしまうことが想像できて、それはとても恐ろしい事だと思うのですが。そういうことは何となく感づいていている割りに、戦々恐々としながら文句を言いながらも、当面安心だからと言って、本当はいつ裏切られるかも知れないものにしがみつく競争をしている。しかも無意識に。大きな会社に入ってみると、そういうところがとても目に付きます。貴重な人生の時間を切り売りして安心を買う。。。どうなんでしょうか。

僕は、自分の人生はもっと自分でコントロールしたい。そのために発生するリスクや不便は仕方ない。自分に力がないだけだから。

強い個人が、もっと自由に、緩やかに繋がり合いながら、相互に刺激し合いながら、面白いものを沢山作っていけるような社会、文化になればいいのに、と思います。勿論、できる限り沢山の「強い個人」を作れるような仕組みも用意して。そして、自分を常にアップグレードできる人が、ちゃんと評価されるような。そういう努力を怠らない人をちゃんと応援できるような。

会社に頼らなくても、自分の能力を活かしてある程度継続的に仕事をとれるような、新しい市場のようなものを作れないか、と考えています。時間を売り買いするのではなく、純粋に能力と課題解決を売り物にして報酬を得られるような仕組みです。そういったものがあれば、企業も個人も、或は専門職の人が集まった緩やかなチームも、ある程度平等な土俵で勝負できるようになり、大きな企業に入ることのメリットが薄れて行く気がします。安心という対価と引き換えにして失っていた、人生の選択の自由であったり、持っている能力をちゃんと必要とされる場所で活かすことで得られる喜びであったり、それを取り戻すのです。

そういったことができるようになることは、社会にとってもいい事だと思うのです。